長い人生には浮き沈みや波があるものです。生れ、成長し、やがて死に至るまでの間、何事もなく平穏無事で送れたという人がいるでしょうか。ほとんどの人が良いときや悪いときを通るものです。

人は良いときには顔の表情が豊かになり、輝いています。逆に悪いときは顔が暗くなり、表情も固くなってきます。

ある教師が、教え子の同窓会に出席すると成長した姿も然ることながら、変化に驚くと言いました。
「男子の場合は成績優秀な子が必ずしも成功しているわけでもなく、いたずらばかりの子が成功していたり、女子の場合はあまり目立たなかった子が母として輝いていたりする」

早いか遅いかは、その人の業や因縁や努力により変わりましょうが、いつか輝くときが必ず有るのです。現在輝いている人は、それが長く続くように。また輝いていない人は、これからを楽しみに。新しい年に向け、観音さまの光明の智慧をいただき人生が光り輝けますようお祈りいたします。 (2005年12月)

  平成十七年も、あと僅かとなりました。新しい年を迎えるとき、いつも心に想うことは今年こそ良い年でありますように。

 でも今年も、事故や災害で多くの方が亡くなりました。恐怖がまだ残ったまま日々を過ごしている方もいます。出会いや別れなど、まさに四苦八苦を抱えて人は生きています。

 大晦日に観音さまの御前で一年をふり返ります。一年の間に何人の新しい縁の人と出合ったのでしょう。数えきれない人々との出会いがありました。

望みが叶った人もいれば叶わなかった人もいます。叶わなかった人は、もう少し時間が必要なのでしょう。

人はそれぞれ因縁により動かされています。努力が報われないこともあります。それを打ち破り前に進む努力の積み重ねで因縁は変わり、前が開けてくるのです。観音さまは、人々の悪因悪果を善因善果に変えるため方便をたてて救ってくれるのです。

 来年こそはと大きな夢に向って希望を持ち続けていれば、たとえこの一年が望みが叶わなかった年であっても生命がある限り、人生は終りではありません。いつか、きっとのぞみは叶うものです。 (2005年11月)


 夜の道を歩きながら空を見ていると、月がずっと自分を見ているように感じます。歩いても歩いても、どこで月を見てもいつもそばにいるのです。

 月明かりに見る景色は昼間のそれと異なり、不思議な神秘的な美しさがあります。太陽の陽に対し月を陰として対照的に例えられることがありますが、月は明るく前向きな光を放っているのです。

 真言宗には「月輪観」という観法があります。秋の夜の満月のような明るくさわやかな光を放つ円を胸の中に観ずるのです。「自心、満月輪となりおわんぬ」と心をそこに向けることにより、明るくのびやかに、ゆったりとした豊かな心にして行くことができるのです。深層意識の中の深いところに明るい心を保つことにより、幸せの根本が造れるのです。

 人類が月に到達してから月の見方が変り、夢がなくなったといわれます。でも人間の生死 に月の満ち欠け、潮の満ち引こときが関係しているは人には動かし難い事実でもあります。

 月も観音さまも、人と共に歩いてくれます。安心して大いなる光を受けて進んでまいりましょう。(2005年10月)

 若い人から、生きて行く目標や目的がなくどうしたら良いかという相談が増えています。ただ漠然と夢もなく生きていても、生きている感動も甲斐もありません。大学受験を控えながら何を学べば良いのか、何が自分に向いているのか判らないという方もあります。

 昔と違い、職業が選択できる時代にその選択すらできないというのは生きていて辛いことです。周囲の人たちから見れば、ぜいたくな悩みに思えても、本人にしたら深刻な問題なのです。親もまた、子供の将来が不安で悩み、お互いの心のすれ違いがお互いを疑心暗鬼にさせてしまのです。

 そのような時は、一緒に旅をしてみたらいかがでしょうか。いろいろな場所で働く人達や心安らぐ場所により、何か生き方の姿に共感するものを見い出せるかも知れません。

 目先のことばかりにとらわれていると将来が見えてきません。一呼吸して、なりたい姿をしっかり心に置くことができれば、目標は定まり努力する道を選べることでしょう。(2005年9月)

 鳥や動物には帰巣本能があって、元自分がいたところに帰ると言われます。人間にもそれと同じ本能があり、フラフラに酔いながらも我家を目指して歩いている健気な男性の姿は、まさにその本能の示すことに見えます。

 観音さまの修法の中に「足止め」というものがあります。探すあてのない場合は、この法により、多くの方が無事家に帰って来ました。その中には自殺寸前に家に連絡した人、行方不明の息子が工事中のテレビ映像の中で見つかったとか、世間で騒動にもなった誘拐事件の解決などがありました。でもこれらは、家族の必死の思いが通じることであり、悪意を持って取り戻そうとする人、又 帰ることにより不幸を招く時も通じないように観じます。

 ご主人の帰宅が遅いということで毎日早く帰って来るように祈願した夫人がいましたが、その方の場合は、必ずご主人が帰宅するから多少遅くなっても騒がないで静かに帰りを待ちなさいと示されました。法は、相手の立場や心持ちを考えて修法することが一番大事なことなのです。

 本物の自己中は、自分が可愛いのです。その可愛い自分を大切にしてくれる人もまた可愛く、大切にするのです。
良くないのは自分勝手な物の見方で、他人を評価することではないでしょうか。(2005年8月)

 ときに人間が陥る心の魔に、自己中心主義というものがあります。
他人に対する好き嫌いは誰もが持つものですが、自己中心に相手を判断し、嫌いな人が、一緒にいる人までも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のように毛嫌いする人がいます。

 人と人とを結ぶ縁とは不思議なもので、どこにどのような人との縁がつながっているか判らないものです。誰が助けてくれるか判りません。

 観音さまの集りに「あの人がいるから行きたくない」と言われた方がいました。「横の人を見ないで観音さまを見て下さい」と申し上げました。誰も皆、観音さまの前では観音さまの子なのです。すがる子を突き放すことも、すがる手を振り払うこともないのです。馬鹿可愛がりも依怙贔屓もせず、その人、その人に応じた手を差しのべてくれるのです。

 本物の自己中は、自分が可愛いのです。その可愛い自分を大切にしてくれる人もまた可愛く、大切にするのです。
良くないのは自分勝手な物の見方で、他人を評価することではないでしょうか。(2005年8月)

 人は夢に向かって生きて行く処に、生き甲斐を感じるものです。明らかな目標、明らかな夢が現われると、ひたすら夢の実現に向って努力精進できるものです。

 そして、夢が叶えば、それはもう夢ではなく現実のものとなります。達成感は時に虚脱感を招くこともありますが、そんな時は新たな夢を、目標を持つことで、また人生が変ってきます。

 獏という伝説の動物がいます。この獏は、人間の悪夢を喰う、と伝えられています。どうあがいても達成できそうにない大きな夢に取りつかれて、孤独の中で戦っている男性がいました。家族は何度もそんな夢みたいなことはいい加減にやめてほしいと訴えましたが、聞き入れてくれませんでした。ところがある日、娘の一言で男性は夢をあきらめたのです。それから間もなく、その男性は亡くなりました。夢を失ったことで、生きる希望をも失ったのです。

 人間にとって夢は生きる糧にもなるものです。いつまでも夢を画き、その夢に向って生きて行く。そういう人生が大切ではないでしょうか。あなたの今の夢は何ですか。 (2005年7月)


 人間の生命の重さを計る物差しはないかも知れませんが、この世に誕生した生命のひとつひとつが、それはそれは大切な重いものなのです。

 森羅万象すべてに生命は宿り、諸行無常の世を生き続けています。人間も輪廻転生し魂は生き続けいるのでしょうが、今この世にこの肉体を持ち生きていることに大きな意味があります。
 
深い縁のつながりにより今生があるのですから、この生命を大切に生きることが人としての勤めでもあります。
 
  自分一人で生きているのではなく多くの人間の中で人は生きているということを考えると、この生命を疎かにはできません。病気や事故、災害により生命はいつも危うさと隣合せです。元気で出掛けた人が変り果てた姿で帰宅した時、家族の悲しさ苦しさは他人の押し計れるものではないでしょう。子を失った親は自分の生命の終るまで、その悲しさと苦しさを持ち続けていくでしょう。

 近年、生命の尊さが軽んじられるような事柄が多く発生しています。家族やまわりの人達のためにも生命は大切に守るべきものなのです。 (2005年6月)

  人の表情の喜怒哀楽は、それぞれのときの心が顔に現われるものです。その表情の中には他の人の心に訴えるものがあるのですが、怒の激しい厳しい顔には、他の人を近づけない恐さがあります。

人はときには怒ることも大切です。自分が他人から誤解を受けていると感じたとき、黙っていられないときもあります。その怒りの顔は、不動明王のような内に慈悲を込め、相手を思いやる根本のある怒りなら良いでしょう。

 昔から女性の内面には般若の面のような恐ろしさがあるといわれますが、それが外面に出てしまうと周囲の人は大変なことになります。また、もしその怒りの顔を自分自身鏡で見たら、我ながら驚きの声をあげるでしょう。

自分の表情は自分では判りませんが、そういう顔は決して美しい顔ではありませんし、心も険しいものでしょう。気持ちを切り替えて、我慢するべきは我慢して明るい笑顔にもどりましょう。

笑顔が明日を明るくするでしょう。 (2005年5月)

  人の一生は順調に進まないことが多いものです。いくら努力しても良い成果として現れず、気に迷いが出たりします。

  でも失敗と思われていたことも経験したことにより人間性に重みや深みが出てきて、世間の人から信頼される人に成長することもあります。失敗を失敗で終らせないためには、何事にも前向きで肯定的な考え方をし、将来にそなえた経験と受け止めると良いのです。

  「転んでもただでは起きない人」というのは、あまり良い意味の表現ではないように思われていますが、「七転八起」「失敗は成功のもと」などは、もう一度がんばってみようと思わせるものがあります。

  私がまだ若かったころは、何事も長続きせずにすぐ途中でやめてしまうことが多かったようです。そんな私を見て父が「お前は成功のもとばかり作っているね」とあきれる反面心配していたようでした。でもそんな経験が現在に活かされているように思えます。三日坊主でも三日の経験が活かされることもあるのです。あきらめずにどんなことでもやってみることが大切なことです。 (2005年 4月)

 争いのもとは、お互いに譲り合うことができないことに初まります。人間はみな自分の意見、自分の世界というものを持っています。その世界に他人を納めようとしても決して納まるものではありません。それは親子、兄弟といえども同じことです。

 「今日からあなたはこうしなさい」といわれ即座に従える人がいるでしょうか。なんとか我慢しても続けていくことに限界があります。家にお嫁さんが来たら、その日から家の家風に従ってもらう。そんな姑さんと争い家庭に暗雲たれこめている家も多くあります。最近は娘と同居している方が楽という女性が増えてきました。我子といえ自分のいいなりに動く人ばかりではありません。

 会社、社会、国、世界、そういう人間の狭く固い考え方の輪が広がっていくところに争いが起きるのです。

 お互いに自分の心の世界に少し風穴をあけて手を取り合えば住みやすい環境ができるのではないでしょうか。

 自分の考えは世界の中心みたいな方は結局孤立して孤独な世界にはまることでしょう。 (2005年 3月)

 人間の心の中には、いろいろな想いが詰まっているのです。良心と悪心と言えども、どこまでが良心なのか、どこからが悪心なのか明確な区別はありません。

 でも最低の心がけとして他人が迷惑がったり、他人を傷つけるようなことは、するべきではないでしょうね。

 他人から見て「あの人は良い人」と言われる人は良心の勝っている人で他人に迷惑や不快感を与えていない人でしょうし、逆に悪い人と言われる人は悪心の勝っている人なのかも知れません。むずかしいのは良い人と思っている人が実は良い人であるために自分の中で相当なストレスをためていて、それが爆発した時悪い人に転じたりすることです。

 「あの人があんなことをするなんて」とは事件の後によく聞くコメントです。誰しも良心と悪心を持ち物事に当たり、そのどちらかの心で対応しているのです。良心も悪心もどちらも一人の人間の心の中にあるのです。 (2005年 2月)


 一月元旦に始まり十二月三十一日の大晦日で一年が終る。ずっとそれが同じことの繰り返しで続いています。その一年の間に泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだりと人それぞれ様々な人生を送っています。観音さまから「一年間辛抱しなさい。長い人生のうちのたった一年ではないですか。がまんして耐え抜けば状況は必ず変ります」と示される方がいます。でもそういう方は我慢ができない限界まで追い込まれているのでしょう。それでもまだ一年間の我慢をしなければならないのかと、がっかりされるのです。たかが一年されど一年で、一年三六五日、八七六〇時間は辛い人には長い時間を感じるものです。あっという間に一年たってしまったと感じる人は充実した日を送っているのでしょう。

 あなたはどんな一年を過ごし、どんな一年を迎えられるのでしょうか。安寧な時を過せ、充実した日々であることをお祈りしましょう。またお互いに人に対して、この心を忘れずに心に止め置き祈りを奉げれば皆が幸せな一年となることでしょう。 (2005年 1月)



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