2006年12月  子供達をとり巻く環境が、年を追うごとに厳しくなってきています。世の中が目まぐるしく変わり、日々心の落ち着きを欠いています。「いじめられる子といじめる子」の問題をはじめ、大人の世界でも、同じようなことが人を苦しめています。

「やられたらやり返す」という強い心が必要だと説いている方がありました。そうでしょうか。友人にYという男性がいます。Yの長男は念願の外車を買い、毎夜楽しく走っていました。ある夜、高速道路の駐車場に止めておいたタイヤホイルを盗まれてしまいました。怒った長男は、同じ型のホイルを盗んで自分のタイヤにはめて帰りました。それでも怒りは治まらず父親に話しました。父は烈火の如く怒り、「お前が盗んだ車の持ち主が、同じように仕返しをしていたら次々と被害者が増え、みんな加害者になる。すぐ返して来い」いつもやさしい父の怒りを見て長男は自分の悪いことに気づいた、ということでした。悪いことをしたとき怒ってくれる人は大事な人です。そして、もし反対に何を言っても無関心だったら、他人の心の傷みにも気付かずに悪心がエスカレートしていくことでしょう。いじめられる方に非があるのではなく、悪いのは、いじめる側にあるのです。変な庇い立てこそ心を腐らせる元なのです。もし被害に遭っている子がいたら、周囲の人のやさしさ、慈しみこそが助けとなるでしょう。生命は自ら捨てるものではありません。自殺をして楽になると思うのは、大変な間違いです。天寿を全うしたところにこそ、あの世の極楽があるのです。自ら生命を絶つ先は、今より苦しいあの世が待っているのですよ。 (2006年12月)

2006年11月   「如」とは、ありのままという意味を指します。この世にある物事の、あるがままの有りさまを示す「十如是」というものがあります。如是相、如是体、如是力(法)、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟の十種です。これらはすべて、ありのままの姿、性質、本体、力、作用、因と縁、結果、報いを表しています。そして最後に、いろいろな力によって諸法がすべてその動きを全うするさま、を言います。

  「これあれば、彼れあり」で物事はひとつの因により果が現れるものですが、無理に力をつけて因を作ろうとすると精神的に相当な重圧がかかります。

逆にありのままの自分を認め、その中で最善を尽くせば、心にも身体にも無理な負担がかかりません。人にはそれぞれの姿があり型があります。この世に現れた自分を知り、ないものねだりせず、自分の精一杯を尽くすことが、自分自身の因縁を変える因になって行きます。

ありのままということは、何もせず努力もせずに生きるということでなく、ありのままの姿を知り、そこから転開を考えることなのです。 (2006年11月)

 最近は占いブームとやらで、何から何まで占ってもらって行動している人が多いそうです。以前、某野球監督が、今日はどのピッチャーを登板させるか、毎日占ってもらって決めているという話がありました。

ある日、自分のチームも毎日観音さまに伺って決めた方が良いのでしょうか、と尋ねた監督がいました。観音さまはその方に、自分で考えて決めなさい。と示されました。そして、その決めた投手が良い結果が出るように守護して下さると伝えますと、安心して帰られました。

もし観音さまに毎日どの投手が良いか決めていただいて登板させたら、仮に優勝したとしてもそれは監督の成果ではなくなります。特に勝負の世界は毎日勝ち続けることは有り得ません。勝ったり負けたりしながら結果が良ければそれで良いのです。

何かに全てを頼るのではなく、自分の力で進むことが大事です。観音さまは、その進む道が暗ければ燈火で明るく照らして下さいます。うしろからそっと後押しをしても下さいます。そして何より、いつも暖かく見守っていてくれるのです。だから私達は安心して頑張れるのです。(2006年10月)

 登山をする人達にとって、天候を計ることが生命を守る大切なことだといいます。天候が良ければただ進めば良いのですが、天候が悪くなりはじめた時に、どこで中止し下山するのか判断をひとつ誤れば生死に関る問題にもつながってきます。そのときの判断力、それが智慧であり勇気なのです。
 
  人生の路に於ても同じことが言えます。人間の世界は迷いがあり、道は何本にも別れています。また欲をそそる楽しみが多く、堕落した世界の誘惑も様々な姿を変えて心を揺さぶります。無明に覆われた眼で見ると、世の中は意味のない間違いも多いのです。

  何が何でも自分の信念を貫き、突き進むという強靭な心を持つことも大事なことですが、ときによるとそれはただ自我の塊でしかないこともあります。努力精進ということは、ただ突き進むことではなく、正しい智慧を働かせて進むということなのです。自分の考え方や行動が他の人々に対して不利益であり迷惑なことならば、退く勇気を持つことです。一度退いて、周囲の状況を判断し、再度挑戦すれば良いのです。

  智慧と慈悲の心を持って生きることがどんな世界に生きる人にも最も大切なことではないでしょうか。(2006年9月)

 藁にもすがりつきたいような思いは、困難極まった時のことを言います。観音院にも、そんな限界ぎりぎりの状態で訪れる方が結構いるのです。

  そういう方々に観音さまのご霊示を示し、話をしても「でも」「それは違う」等、頭から不信の言葉が返って来ることが多いのです。

  なかなか理が頭の中に入らず、迷いの淵に立ったまま帰られる方もいるのです。
 
  例えば、ボロボロの橋が有ったとして、その橋を渡れば幸福な対岸に行ける。そう示されて、信じて橋を渡る人が何人いるでしょうか。橋が壊れたら流の渦に巻き込まれてしまう。そんな不安が頭から離れず、ひたすらただ堤を歩いて考え続けたとしても、対岸に到達はできないのです。
 
  また、海中で溺れそうな時、実際には藁どころか丁度掴みやすい木が流れて来ても、すぐにはとびつかない。なぜなら波の間にある木を見ることができないのです。まわりを見る余裕もなく、ただ困った困ったとパニックになりやすいのです。極限に立ったら先ずは冷静にまわりを見て、正しい知恵を働かすと、正しい判断ができるのです。案外藁でも救ってくれるかも知れません。(2006年8月)

 親が気付かないところで、子は心に傷を負うことがあります。なかには成長して、ずっとその傷を抱えて生きて行く人もいます。ときにはそんな過去の心の古傷が犯罪のもとになることもあるのです。
 
  相談に来る方の中には中年になっても、まだ子供のころの親の対応に不信を持ち、老いた親に反抗的な態度でしか接することができないという人もいます。
 
  心の傷、とくに深く刺さった棘を抜くのには、早く早くという焦りは禁物です。焦りは余計に棘を深く刺すのです。周囲の人のやさしさとゆったりとした時の流れが、ゆっくりと棘を抜いて行くのです。
 
  慈悲の心こそ、その傷がいかに深く大きなものであっても必ず治してくれるものです。それと同時に幼児期の環境が人間にとって、いかに大切なものであるかも教えられます。
 
  物が有るとか無いとかに関心が行きやすい時代ですが、心の豊かさ、思いやりの心こそが一番大切な一番身近か環境問題ではないでしょうか。
(2006年7月)

  一度の失敗が頭の中に残って長く居座ると、することなすこと全て失敗してしまうような妄想が出て、自己嫌悪に陥る方があります。

 挫折を乗り越えて前向きに進める人と、それをいつまでも抱えてしまう人とでは人生の先が大きく異なります。失敗したらやり直せば良いし、次の機会を逃さないようにするという、方法はいくらでもあるのです。

 坐薪懸胆(ざしんけんたん)という言葉があります。将来の成功のために大きな苦労をするという意味です。成功に苦労はつきものです。それを恐れ座ったままで動かなければ一歩も前には進みません。失敗の原因を突き止めたら、同じ失敗をしないように計画を立て直し、プラス思考で進めば、必ず人生の展開は変ります。

 心が暗くなると、様々なことが禍いとなります。心の眼を明るく保つと前途も明るく開けてくるものです。挫折、失敗したときはチャンスを生むという位の強い心を持ち、恐れずに進んで行けば人生は変って行き運命も変えられるのです。(2006年6月)

 自信とは、自らを信じることなのですが、自分の能力や価値、自分の正しさをあなた自身が、どの位知っているのでしょうか。自分を信じて疑わない心が基になって物事を進めて行く所に物事の成就はあるのです。

  あまり自信過剰になりすぎて無謀なことをしては困りますが、自分を信じる心を持つことは大切なことなのです。

「如実知自心」とは、自分の心の働きをありのまま観て、正しく自覚すること、と弘法大師空海さまは述べられています。自分の心の働きについて、客観的に観つめてみようと意識することが有るでしょうか。目の前の現象に一喜一憂し、無駄な時を過してしまう人生が多いのではないでしょうか。

  自分自身が信じられずに、目標に向っても成功は難しいでしょう。自分を知り深い心で向う所に成功があるのです。自分を信じられない人を応援したり協力をしたりしてくれる人は滅多には現われません。出来るか出来ないか悩んでいるより、自信を持って進んでみましょう。結果は必ずついてくるものです。(2006年5月)
 長い人生には、越えなければならない山がいくつも現われてくるものです。山が険しいと途中であきらめたり、投げ出したりしたくなります。
苦しいときには、山頂に到達したときの達成感と広大な景色を頭に画くと、前に進む勇気が出てきます。

人生に於て苦難が続くと先が見えずに、眼前の苦しさしか頭の中に存在しなくなるのです。全身全霊が苦の中に入り込み、一寸先も闇にしか見えなくなります。

そんなときは、頭の中から苦を少し離してみるのです。そうして、この先の楽しみなことを考えてみましょう。何でも良いのです。人それぞれに楽しいことは異なりますから、自分が一番やりたいこと、やってみたいことでも良いのです。誰かに会いに行きたい、それも良いでしょう。その楽しみが大きければ大きいほど、苦は抜けて行き、乗りこえる勇気が湧いて来るのです。どうなるか判らない不安に苛まれたときも同じです。

楽な世界の極みが極楽です。生きていて極楽に在ることを観音さまは導いてくれているのです。(2006年4月)

  言辞施というのは、無財の七施のひとつです。人にやさしい言葉、慈しみの言葉を施すというものです。財が無くても誰にでもできることですが、無財の七施になっているということは案外できそうで出来ないことなのでしょう。

言論の自由とやらで、お互いに議論することは良いでしょうが、他人の心に刺を差すような言い方は良くありません。言った方は忘れてしまっても、言われた方は、いつまでも心の傷が癒えないのです。

子供のころに母親に言われた事が、心に深く残り、いわゆるトラウマとなり、成人してからも暗い影となっている人も多いのです。親子、兄弟といえども気をつけなければならないのです。まして他人ならなおさらのことです。それを撥ね除けて成功した人の話もありますが、人間は案外心の弱い所があるのです。ときには、それが長い恨みのもとになったりもします。

口をついて出た言葉は、取り戻せないのです。相手かまわず、言いたい事を自己主張していると、いつかは巡って自らが諦りを受けることになるでしょう。物の見方や価値観は人様々なのです。(2006年3月)

 人は概ね、若いときの失敗は取り戻せるが、熟年になってからの失敗は取り戻せないと言う。それ由に、ある年令になると、どうしても守りに入ることが多くなるのです。

それと共に若いときの失敗が頭を持ち上げて、あの時なぜあんなことをしてしまったのかというような後悔と懺悔に悩まされたりすることもあります。いつまでも失敗をひきずらず、新しいことに挑戦し続けるという、若い心を持ち続けることにより、後悔のない人生が送れるものです。

よく声にする言葉に「もうこの年になってしまったら何をしても無駄」という諦めに至っているような方がいますが、人間はこの世が終るまで諦めずに、新しいことに向って進む境地が大切です。

若いころをふり返り「よくあんな無茶なことをやって来たものだ」と思えることがあるのではないでしょうか。無茶はできなくなったとしても後向きに生きることは老いを早める元になってしまいます。

新しい年を迎えて、今年新たにやってみたいことを探してみることも生き甲斐に通じることではないでしょうか。
(2006年1月)


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